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人生の順番

あの時こうしていればよかった


でもあの時そうしていたら君に出会えて無かった


あの時ここでこう言っていたら 君とはどうなっていたのだろう
わたしはどうなっていたのだろう



あそこへ行っていたら こんな言葉を掛けていたら




そのすべては今につながっていて それのすべてをしていたら 君に出会えていなくて   
こんな哀しみも
こんな愛しさも
こんなよろこびも
こんないらだちも
こんな楽しさも
人生の色々な事を
知らないでいたかもしれない




あのひとがこうしてくれていたら
このひとがこんな事をしてくれていたら
そのひともこんな風になって
ハッピーだったかもしれないのに




それでもその通りになったら やっぱり君とは出会えていない
誰かと誰かのしあわせを願うことや
誰かと誰かの仲良くなるのを祈ることや
笑顔を求めても
叶わないこともある




その悲しいことはいつかこの先の笑顔の種になって
過去の人生も
君の歩んで来た道のりでさえも
うまれてくる前に運命(さだめ)られた人生があったとしても
乗り越えていけるんだよって
今教えてくれる



誰も見てないし  誰も知らない
何も決まってないし  誰も決めてない
自分も知らないし  他の誰も分からない




順番も無いし  道順も分からない
それでもいい  だからいい
そうして歩いてきたら 
君に出会えたから 正しい道だったって
そう思えるから




同んなじように歩けばいいよ

















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