ヨーガスートラの最初に出てくる一文。
”ヨーガは心素を止滅することである”という言葉があります。
心素とは何ぞや?ですが、心素=記憶袋と言われるもので過去の記憶が詰まったものです。
本人が憶えていようがいまいが、その記憶袋の中にはうまれたときから今日までの記憶が詰まっています。
何でも無い時に過去の事をふっと思い出したりしますよね。
忘れていた過去もそこには記憶されています。すべて。
その心素=過去の記憶、を止めて、滅っする。
ヨガのワークや哲学はカタチだけのポーズや歴史をただ暗記するだけでなく人生に活かしていくエッセンスみたいなもので自分の人生や生き方と向き合います。ラジオ体操やストレッチも元々ヨガが元になっていて、潜在意識や無意識層、哲学的な事はセミナーやワークショップでしきりに流行の一部として取り入れられていますがヨガの源流から取り出した一部かな、と思います。何千年と人間について研究されていますからね。
ヨガの瞑想やワークは内省や客観性、俯瞰的に身体と心を紐解いてゆきます。
子ども時代の頃、母との関係性、過去の記憶、捉われが今の自分を作り出していたり、ある意味マイナスにもなって固定観念や縛り、捉われになっていることも少なくありません。子供の頃の体験が強く残って大人になってから克服する事は大変な事かもしれません。心理、トラウマ、虐待や精神的苦痛など過去の出来事に心が苦しみ続ける事は悲しい事ですが、現実にあって多かれ少なかれ誰にとっても他人に何かをしてもらい支えられて時には傷付き人生を歩んで来ていると思います。
忘れようと思って努めて忘れたことや只忘れてしまった出来事や良き想い出としていつまでも秘めておきたい事など様々な感情が身体の中を過ぎ去ってきた事でしょう。
私もすっかり忘れていたのに幼児の頃の記憶をふっと思い出しました。
幼稚園から小学生に上がった時。
姉である自分は妹が居るからお姉ちゃんでなければならない、甘えずに我慢しなくてはならない、お姉ちゃんにならなきゃ、と思っていました。本当はお父さんにまだおんぶがしてもらいたかったんです。でも小学生になったらもうお姉さんになるんだから卒業だよ、と言われてちゃんと我慢しました。けれど妹も小学校一年生になった時、妹はまだおんぶをしてもらっていて、何で?何故妹はまだおんぶして貰えるの??と子供ながらに妹ばっかり、私はいつも我慢しなくはならないの、と思ったのでした。末っ子は可愛がって貰える、と感じたんです。
大人になって、そんなこと、とうに忘れてしまっていて、当たり前のように普通の日常を過ごしていて、先日、妹に2人目の甥っ子が産まれるという安定期に入ったそんな時。
母が妹に対して言った何気ない言葉。
「うえの子は、したの子より可愛いがってあげなくちゃダメだよ」
と、言いました。
教育に関して、私たちの子育てに関して一切ああしてきた、こうしてきた、何々をしてあげた、とは一度も言った事が無い母親。はじめて私達をどうやって育てたのか、どんな思いで育てたのかをほんの一握りだけれど本当にささいな一言だけれど、ガツーンとショックを受けるようなびっくりする面持ちで横で聞いたのでした。私に直接言った言葉ではありません。孫が生まれて母としてすべき事はこうだよ、こうした方が良いよ、というアドバイスでした。
「ああ、母は私の事を可愛いがってくれてたんだ、妹ばっかりでなくて、私の事もちゃんと考えてくれていたんだ」と初めて、そこで気付きました。
子供だから分からなかったんです。
幼かったから自分の事しか考えられなかったから見えなかったんです。
大人になってから分かる事って良いな、って思いました。
とっても仲が良い!っていう程の親子でもないけれど、やっぱりどこか似ているし、会うと元気になるし落ち着くし、身内だからイライラすることもあるけれど、でも私を想って育ててくれてたんだな、って今更ながら30歳になって母の想いが時間を掛けて伝わった気がしました。
スピリチュアルの世界だとインナーチャイルドとか潜在意識とか無意識とか本人が思い出せない位の過去の記憶が今でも本人の気付かないところでうずいている、そんな事ってあるんです。
だから反発してしまったり。
でも、そうやって過去の記憶、心素=心の記憶袋をもう一度開いて、見直してみたら、こんな心の欠片があった、って気付くかも。
血がちょっと出るようなガラスの破片だったかもしれないものが、角が無くなってまあるくなってキラキラ光るガラスに変わるかも。昇華、浄化って言うのかな。
お母さん、ありがとう。ずっと気付かないでごめんね。ありがとう。ありがとう。